2024 R6年 6月13日 木
6月13日 ニュース
能登で124時間後に救出した専門部隊 気づいた「声かけ」の大切さ
元日に起きた能登半島地震。発災から124時間後に被災者を救出して注目されたのが、警察の災害対策専門部隊「広域緊急援助隊」だ。被災地の最前線に駆けつける救出のエキスパートとは――。
「分かります? 助けますからね」
福岡県内各地で真夏日を記録した5月26日、筑後川の河川敷に置かれた1台の軽乗用車に隊員が声を張り上げる。車内には運転手と同乗者役の人形2体。地震に伴う交通事故で車内に閉じ込められたという想定だった。
福岡県警広域緊急援助隊はこの日、うきは市が開いた総合防災訓練に参加した。
6月13日 雑学
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小惑星探査機「はやぶさ」帰還
出典:JAXA
2010(平成22)年6月13日、小惑星探査機
が地球に帰還しました。
当時の技術では
なか、「はやぶさ」は
し続け、そのミッションを見事果たした後の帰還となりました。
「はやぶさ」に搭載されていた耐熱カプセルからは
されており、奇跡的な帰還と共に
という人類史上初の快挙を成し遂げております。
はやぶさの日
「はやぶさ」が成し遂げた偉業から
あきらめない心
努力する気持ち
の大切さを伝えていこうと、帰還した6月13日は宇宙航空研究開発機構が
はやぶさの日
として記念日のひとつに制定しております。
鉄人の日
出典:産経新聞
1985(昭和60)年6月13日、鉄人と称され広島東洋カープに所属していた衣笠祥雄選手が
2,131試合連続出場
の世界記録を樹立したことにちなんで記念日が設けられております。
アメリカ・MLBのルー・ゲーリック選手が保持していた記録を抜いた衣笠氏は、その後連続出場記録を
2,215試合
まで伸ばしております。
まだスポーツ医学に関する知識が充分でない時代に、17年間一度も休まなかったことへのプロ選手としての在り方は、野球界だけでなくあらゆる分野の業界人に時代を越えて大きな影響を与えて続けております。
ちなみに、2023(令和5)年末時点での連続出場数世界記録は
となっております。
タレント誕生日
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岡田英次
- 1920年6月13日
- 俳優
山田邦子
- 1960年6月13日
- タレント
森口博子
- 1968年6月13日
- タレント
- 歌手
伊調馨
- 1984年6月13日
- レスリング選手
- 女子 レスリング・フリースタイル
・2004 アテネ五輪 63kg級
・2008 北京五輪 63kg級
・2012 ロンドン五輪 63kg級
・2016 リオデジャネイロ五輪 58kg級
金メダリスト
本田圭佑
- 1985年6月13日
- サッカー選手
- 元日本代表
https://igapro24.com/2018/06/13/historia-132/
三沢光晴死去…2009年6月13日という長い夜

当時のプロレス格闘技DXの速報…誰もが三沢が亡くなるとは思っていただろうか、自分もこの速報を見た時は、”三沢のことだから大丈夫”だろうしか思っていなかった。だが1ヶ月前の5月3日の京都KBSホール大会を自分が訪れ、いつもサインや記念撮影などファンサービスに応える三沢がしんどそうな顔を浮かべて、誰も寄せ付けなかった姿を見て、”三沢はもう休ませるべきなのでは”思っていた、しかししばらくしてYahoo!ニュースで三沢の訃報を聴いた瞬間、ショックを受け愕然としていた。そして思ったことは”バカやろう!””ふざけんな!”の言葉だった。なぜだかわからない、自然と出た言葉だった。今思えば悔しかったのかもしれない。
2009年3月をもってNOAHは日本テレビによる地上波中継が打ち切り、TV局から支払われる放映権料が大幅にカットされたことで、資金繰りに苦しみ、また三沢自身も全日本プロレス時代からの四天王プロレス時代のダメージが齢を取るにつれて出始め、満足にトレーニングもできない状態になった。しかしNOAHは旗揚げから三沢、小橋建太、秋山準のイメージが強かったこともあり、3人がいなければ成り立たない団体だったが、小橋も腎臓ガンの闘病だけでなく四天王プロレス時代のダメージが身体に出始め、秋山も古傷の腰痛に苦しんでいた。だが彼らが出ないとプロモーターは興行を買ってくれず、また観客も動員できないという声が内部から多かったこともあって、丸藤正道やKENTAへの世代交代を阻み、三沢に負担をかける要因にもなった。

三沢は潮崎豪とのコンビで「グローバルタッグリーグ戦」を優勝、試合内容も潮崎が前面に出て、出番の少ない三沢がお膳立てして、最後は潮崎が締めくくるというものだったが、潮崎も三沢のコンディションが悪いということは充分にわかっており、なるべく三沢に負担をかけまいと心がけていた。そして6月13日の広島県立総合体育館グリーンアリーナでは齋藤彰俊&バイソン・スミス組の保持するGHCタッグ王座に挑戦が決定、4月29日「グローバルタッグリーグ」米子大会で行われた公式戦では三沢自身がバイソンの雪崩式バイソンデニエルを喰らいフォール負けを喫していることから、三沢&潮崎組にとってもリベンジをかけての選手権だった。
選手権に向けて三沢は潮崎と共に週刊プロレスのインタビューに答え、「今回みたいにちょっと長いと体の治癒力も落ちている」「ガタが来るのは、オレの方が先だし、すでに来ているからね」と自身の体調を自虐的に語ったが、オフレコでは「本当に大丈夫なのか?」と聴かれると「本当にヤバいんだ」と答えていたという。それでも三沢はNOAHを再び上昇気流に乗せるために最前線に出ることを選んだ。
6月ツアーも開幕した11日、大阪大会に出場した三沢は翌日はオフだったこともあって、付き人だった鈴木鼓太郎や移動バスの運転手と共に食事をしてから朝方までカラオケを行うなどリラックスし、12日はホテルから出ず心と体も休ませていた。13日、三沢は移動バスで広島入りし、ホテルに荷物を置いて会場入り、大会はSAMURAI TVにて中継されることもあってインタビューに答え、大川正明リングアナに声を掛けられて逃げるという愛嬌も見せ、周囲には「コンディションはいいよ」と語っていた。試合開始直前、古傷の腰が悪化した秋山の処置をしていた浅子覚トレーナーにニコっと笑い、三沢はリングへと向かった。それが三沢の最後の姿になることは誰も思わなかった。
選手権は、いくら三沢が「コンディションはいいよ」と答えていても、潮崎の目から見ても三沢のコンディションの悪さはわかっていた。だから今回も潮崎の出番は敢えて多めにして三沢の出番はなるべく少なくという試合運びをせざる得なかった。やっと三沢の出番になると、三沢はバイソンにランニングエルボー、セントーン、エルボーとバイソンを攻め込んでいくが、彰俊が入り、三沢が合体雪崩式アイアンクロースラムを食らってしまうと、このときに三沢の頭がいつも以上に頭が揺れていたという。本当ならこの時点で各自が異変に気づくべきだったのかもしれない、しかし三沢が普通に動きだしたのでレフェリーだけでなく、潮崎も三沢は試合が出来ると判断するが、だが三沢は彰俊の猛攻の前に防戦一方となり、彰俊の串刺しでの膝蹴りを顔面に喰らったあとで、バックドロップを受けてしまった…、実は浅子トレーナーから首全体に骨棘があることから下を向くことが出来ない三沢に「後ろに投げられるのは気をつけてください」と注意を受けていた。三沢がダウンした後で彰俊もラリアットを狙うためにコーナーに下がっていたが、三沢は横にくの字でダウンしたまま起き上がってこない、ここで西永レフェリーがチェックに入ると三沢の顔色がみるみるうちに紫色に変色したことで異変を察知、そこで三沢が突然目が開き、あらぬ方向に向けた、そして西永レフェリーは「動けるか?」と聴くと、三沢は「ダメだ」、西永レフェリー「止めるぞ」、三沢「止めろ」と指示し、試合終了のゴングが鳴らされた。

TKOで王者組が勝利も、三沢が起き上がらないことで館内は騒然となり、セコンドで試合を見ていた杉浦貴も石森太二に浅子トレーナーを連れてくるように指示、鼓太郎も氷嚢を持ってリングに上がる。そして観戦していた医師二人もリングに呼び込まれ、浅子トレーナーは人工呼吸、医師も心臓マッサージを行うなど応急処置が施され、ファンも三沢が起き上がってくることを信じて”三沢コール”が発生する。やっとAEDが運ばれ処置が行われ、秋山だけでなく佐々木健介、高山善廣も駆けつけ、救急隊も駆けつけ三沢は担架ごとストレッチャーに乗せられ会場を後にするが、三沢が意識が戻らないまま病院に搬送される姿を見たファンも涙を流し、リングから目を背ける人もいるなど動揺が広がる。選手会長の森嶋猛は「必ず三沢さんは帰ってきます!今日はありがとうございます!」と大会を締めくくったが、誰もが森嶋の言葉を信じたかったと思う。だが午後10時10分、三沢は顎髄離断で死去した…

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